人はみている

窓

この連休、今年シブイオンガクスタヂオが取り組んでいる、発表機会の増加とその意味について、書いてきてみた。(野球みながらなので、いつもよりも文字数 少なくて親切冗長さに欠けているが。たとえば、なんの説明もなく冒頭で短くまとめた日は、私たちの武田勝投手の好投から目が離せなかったから。)


こういった、無駄な前置きが少なかった。

さて。客観視と他人の評価の前提の話である。

言うまでもなく、同じ条件でステージに立つ他人をみることで、自分の様子を推察できるから、他人の様子は見なくちゃ始まらない。ということ。武田勝さんを凝視しながら書くまでもないこと。

もう一つのこと。
他人の評価。
これを公正にまた忌憚なく、手に入れることは案外難しい。

なにせ会場に呼べるお友だちもいない人には、今日の自分と過去の自分を比較できる人すら、いないわけだから。

 しかし、シブイ音楽祭も回数を重ねて、出場者も観覧者も知らず知らず「ずっとみてきた関係」になって来ている。だから、普段仲良しでもないけれど、「実は互いの変化成長を知っている」関係になっていることになる。人はみているのだ。

これを活かさない手はないのだ。

なにせ個人レッスン。間接的に生徒さん同士をつなぐのは講師になる。現実に私の耳には、「あの人、上手になりましたよねえ。変わりましたよね」なんて言葉が入ってきていて、「お願いだそれを直接言ってやってくれたまえ」と思うことしきりなのだ。全然、会話も交わしていなさそうな距離ゆえに、実に歯がゆい。



仲良くなくてもいい。年に何回かのその日だけでも、軽く言葉を交わせる関係を築くことが実に、有意義なのだ。


幸いにして、何度も言うけれど、同じ講師フィルターをくぐった人たち、そんなに相性悪いはずがないのだから。


ほんの些細な言葉が節目になることは、何をしても同じ。


そして、意欲の差はあれど皆さん、向上心があるから通うわけで。1対1では得られないものを得ていっていただきたいと願う。


なんだかんだ手前味噌になりがちな、シブイオンガクスタヂオの発表会、音楽祭。出場しているのはいつも会員の半数程度。

人前で歌うなんて考えたこともない、でも、ちょっとはマシになりたい、そういう方々にこそ、顔を出していただきたいもの。


また、「うたわないコース」創設一年。うたわないコースからの出場をも今年は予定している。楽しみなことではないか。うたうのか、うたわないのか?



写真は、度々名前を挙げた武田投手。飯田橋のとある場所で撮影に成功。