久しぶりに書きます。
ボイストレーニングのシブイオンガクスタヂオ、ご愛顧に感謝です。たった4年前の夏、この会員数では発表会も出来ないな、十周年の年の間にやりたかったのにと涙を飲んだことが昔懐かしく思われます。
今年も体験レッスンを必要に応じてしか受け付けていないこともあり、今年は私は体験レッスンをこれまで十コマ十人しか行なっていません。それでもつぶれずにまわっているのだから、シブイさん随分と運営不安は減りました。
いや。実は傍目からは運営不安どころか、ボイストレーニング教室なんて水物ながら、講師も増やして三つのレッスン部屋のスケジュールは忙しく、新規受付を制限している程なんて言うと、商売上々ですね、という見方をされてしまうようです。近頃はそういう意味でとても面白い体験をしています。
事実は、文字通りに運営不安が減った程度のものなのですが、レッスン中の雑談や、初対面時の体験レッスンのお話の枕の中で、まるで私を商売に成功している人として、ちょっとした敬意を込めながら、ごくごく自然にお話してくださる、褒めてくださる方が出てきました。無論以前には考えられなかったことです。
しかし、それに対してことごとく私は、即座にせっかくの言葉を否定してしまいます。自信なんてないし、自分は今も失敗ばかりで、表通りを堂々となんてとんでもない。裏通りをこっそり歩いているんです、と答えてしまいます。そんな私をたいていは、ご謙遜ですかと訝しがられるわけです。
私の心の声はいつもこうでした。教室が人でいっぱいになったことなんて、たまたまだし、いつでも不況はやってくるものだし、どうでもいいこと。事実誇れるほど稼いでないし。と、まったく、自分評価と他人評価が噛み合っていないのです。この理由、恥ずかしながら最近ようやく自分で気がついたのでした。
ある人の歌声は、お世辞にも音程が合っているものではなく、若干はずれ気味です。ところが、のびのびと衒いなく、大好きな歌を歌っている雰囲気が出ているのです。聞いている側は、いいな、と思うのです。ところがご本人は、下手だ音痴だ自信がないというのです。
ある人の歌声は、きちっと音楽的にリズムも音程も踏み外さないで出来る自分を踏まえそこに懸命で、できばえも実に音楽的なのです。ただし、その制御のために喉が疲弊しやすく、声質も若干無理をしているように感じさせられます。お手本をなぞることに一生懸命すぎて、窮屈といえばわかりやすいでしょうか。カラオケのエコー効果があればそのかたさはカバーできるのですが、生声だと、窮屈そのもの。でも、音は合ってる本人自信もある。でも、自分が思うほどの評価は受けないのです。
むずかしいものです。人は人に、何を求めるのか。求められるのか。なにを意識すればいいのか、あるいは意識しないべきなのか。
他人の評価は、その組み合わせの巡り合わせの成り行き任せであって、ちょっとしたことで変わり得るわけです。そのちょっとした観点や力点の変更を、許すか許さないか、許せるかどうか。
ああ、そんなことを考えないまま音楽をうたを共有できたら、しあわせなのに。だって、たかが歌ですもの。ねえ。
私は、素養も才能にも恵まれはしませんでしたが、時間をかけて、ずいぶんましになりました。ずいぶんましになったという事実を糧にあるいは盾に、うたと向き合えばいいのだな、と最近気がつきました。
長年かかってやっと、自分のやりたいことができるようになるのかも知れません。これは生業が落ち着いてきたおかげでもあります。お前好き放題してきたんじゃないのか?と言われそうですが。
連休お休みいただきつつ、譜面を書きながら。