音痴対策

私音痴なので、それをなんとかしたいんです。この、「私音痴なので」、とは、実によく聞かされる言葉です。

 

音を聴きとったり狙った高さの音を声で表現できなかったりすることを、音痴と呼んでいることになりましょうか。

 

例えば、同じ間違いを何度でもしたりするような学習能力の乏しさや、理解力のなさに対して、気軽に馬鹿という表現をしたりします。あるいは、その程度を相対的に表すために、私馬鹿だから、と表現することも、あいつ馬鹿だからと、言うものです。

 

おそらく、そのような使い方で、私音痴だから、と称するのでしょう。もちろんそうだとすれば、平均律上に限る絶対音感が身についた方からみれば、私などは酷い音痴、の評を受けてしかるべきです。あるいはそう自称するべきです。さすがの私も立場上、そこまで謙ることはできません。

 

自称音痴すなわち安直に音痴と称する皆さんの状態は、どういう状態か、と言いますと、罫線のないノートにまっすぐ字が書けないことを嘆いている、或いは笑われている程度のことなのです。それは、確かに決して簡単じゃないです。が、改善可能です。

 

まっすぐの線の上、沿ってでもいいです。同じ大きさの文字をかけるように繰り返す。という修練をすると、いつかは、それなりになりましょう。人によっては、すぐです。そして、罫線の幅や文字の大きさを自在にするための練習、というものもきっとありましょうし、やっていけばそれなりになりそうな気がしませんか。

 

これを発声に、歌に転用すれば、れなりになりそう、でありませんか? そして、それくらいのことです。やったら、是正されていきそうですね。そして、していくものです。面白いことに。なので、音痴という言葉は、あまり使って欲しくないなと思うのです。

 

 

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こんなお話をする理由は、自称音痴の受講者で本物の音痴と出会うことは数年に一度だという事実を踏まえているからです。何故でしょう。簡単です。本物を自覚している方は、よほどのことがなければ、それを他人に漏らしません。つまり、我々のもとへも足を運びません。ごく稀に勇気を出していらっしゃいます。気の毒だなと思うほどです。上記のたとえで言えば、そもそも字が書くべきノートを持っていないくらいなのです。これは大変です。ノートを作るところから、根気よくおつきあいするのが、私の仕事と思って向き合っていました。最近はまったく、とんと出会いません。二極化でしょうか。趣味の広範化でしょうか。共有価値観の崩壊でしょうか。時代でしょうか。