カラオケに対する考え方を自分らしさという観点から変えられないか

 

カラオケに行っても、歌いたい曲のキーが高いから、うまく歌えない。自分は声が低いから音域を拡げたい。なんとかならないか。

 

という声の多いこと多いこと。

 

カラオケで歌おうとしているのは、まがりなりにも声を職業にしようとして選ばれた方々が、その特殊性を生かすべく磨いた職人的技能を備えた上で歌った楽曲ということになりましょう。

 

つまり、皆さんがやろうとしているのは、大工さんが腕を磨いた末に出来たおうちを自分で作ってみよう、という無謀な企てであることは、自明のことです。しかし自明のことと認めるなればこそ、我々は大工さんという職人芸に対して、敬意を抱くものでしょう。

 

大工さんの技とまではいかないとしても、棚を作ったり、壁を作ったりということくらいの素人にも出来る満足な到達点を設定して、日曜大工、なんて言葉があるわけです。これはすなわち、すでに社会的に認知されているわけです。日曜大工。なんて美しい響きでしょう。既製の型にとらわれず、自分の好きなサイズで、自分の好きな色で、自分の好きな使い勝手を自分の技能に応じて自分らしく目指せます。

 

歌手という職業の方の、特殊な職人芸に対する敬意を忘れてはなりません。

現在はカラオケという擬似伴奏器具を使って、歌手の方と同じようなことが体験できます。どんなに精巧なデータで作られていたりどんなに高価な音響設備に頼っても、しょせん、同じようなこと、どまりです。しかし、おそろしく出来すぎたことに、カラオケの場合は、楽器の特性ひとつをも知らない素人にも移調ができます。どう考えたって半音下げただけでギターじゃ弾きようのない曲というものだってありますが、そこに違和感なく声が乗せられるくらいの素人であることを自認できるのであれば、自分が歌えるところまでキーを下げるという行為が、すなわちその歌手への表敬であるとでも考えればいいのです。いいじゃないですか、日曜歌手、なんて言葉があっても。

 

ここ何十年か、自分らしく、とか、自分らしさ、という言葉が偏重的に尊重されて久しいのに、なぜ、そこに自分らしさを感じてくれないのでしょうか。自分らしさとは、自分の生きてきたそのままの姿のことではないのでしょうか。毎日毎日、あれが歌ってみたいからと歌っているから歌えるのであって、だとすればカラオケなど行くまでもなく最低限歌詞を忘れるはずもないわけです。それくらいやってきた自分、あるいは逆に、そこまではやっていない自分、というものこそが、自分らしさというものでしょう。(ボイストレーニングを実際やってみると分かりますが、歌詞を読みながら歌うのと、見ないで歌うのとでは、それだけで全然声が違います。)

 

迷わず、カラオケのキーなど下げてください。下げた途端に魅力のなくなる楽曲など、そもそも存在価値の薄いものです。それよりも、無理しない背伸びしない自分の声で、大好きなうたを自分らしく歌っている姿が、美しいのだと思います。私はこの教室を作り、たくさんイベントを開き、みなさんの無謀な移調要請に合わせて伴奏をたくさんして来ましたが、キー全然違うけどこのうた大好きという表現をした人たちが一番、みんなを幸せにしてくれました。

 

下げたら下げたで、今度は下の方が出にくいのですがと思ったら、なおのこと、歌手への敬意が湧くことでしょう。楽曲制作者への敬意が湧くでしょう。

 

大量消費の時代もそろそろ飽きたことでしょう。絆って言葉がお好きでしょう。だったら、自分を認めて自分らしさを許してあげることで、カラオケへの苦手意識も格段に減りましょう。事実実際、技術よりも苦手意識が一番の敵なのです。

 

ここまで読まれても腑に落ちない若者のみなさんは、はい、高い音がこんなにすぐに出るようになりなすよーっというコピーを掲げた教室の方へ、どうぞ。

 

しかしなあ、得点が高いのと、キーが高いのとは、意味が全然違うんですけども、多分おおかたのひとは、同様な意味で捉えているのでしょうね。不幸な教育の賜物とも言えましょうね。