うたがうまい

ボイストレイナー生活二十年を経て、思う。

 

歌がうまいというのは、どういうことか

 

みんな、うまくなりたい歌が上手くなりたいというけれど、それはいったい何のことなのか、ずっと考えて来ました。

 

というのも、うまくなりたいという表現はこの二十年変わらず、よく用いられているようだからです。

 

うたがうまい。その言葉に随分と振り回されて来ました。

なにしろ、根拠もなくその言葉を使う人が多く、それが何を意味するのかを確認のために尋ねても、説明の為にほかの言葉で言い換えられた人がいないのです。しかもそんな偏屈なことを言う私自身たしかに、漠然と思わず、うまいねえ、とつぶやく瞬間があるのです。

 

うまいは、難しい。ではうまいの反対、うたがへた、というのは、どうだったでしょう。言うまでもなく、歌にはいろいろな要素があります。概ね、既定のメロディを外すことなく、必要最低限の声量があり、かつ言葉が聞き取れたら、よしとされましょう。そのあたりを一つでも取りこぼすと、へた、の烙印を押されることでしょう。

 

ボイストレーナーとしては、それらの点がクリアできるところまで導けたら、お仕事は終了です。そしてそこまでだけでも、だいったい一般的には、へたとは認知されないことでしょうし、場合によってはじゅうぶん上手、と評されましょう。うまいひと、の出来上がりです。

常にものごとには上には上がありましょうから、うまいの上のさらにうまい、があることでしょうが、ことボイストレーニングのカバーする範囲から先の話になります。そう、その先は、表現技法というべきもので、言わばボーカルトレーニングの領域ですもの。

 

と言うわけで、ある程度までは、ボイストレーニングによって歌は、へた認定を脱却してうまくなる可能性がある、と言えるかと思います。あ、今更ですが私、いまや一般的な、ボイトレ行けば上手くなる、といういかにも考えの浅い知能程度の低い短絡的な物言いには、常に反駁して来ました。ご理解ください。

 

 

ところが残念なことに、うたがうまくなっても、一般社会的にはその個人の満足を超えることはほぼないのです。例え幸運にも、ボイストレーニングでうたがうまくなったとして、お金になるわけでもなければ、いえ、お金になったところで、やはりその個人の満足を超えるものではありません。

 

 

果たして、うたがうまくなったところで、みんなが幸せになるのだろうか。

 

といったことを、ずっとずっとずっとずっと考えて来ました。

 

 

それに対して、あまりうたわないコース、を提唱し生徒募集をしてレッスンを行って来たところ、想像以上の需要に驚きました。そして、その成果が得る満足というものは、個人の満足にとどまらず、その声を実際に聞く人への波及効果という点で、なんと、うたの比ではなかったのでした。

 

理由は簡単。四六時中うたを歌っている人なんて、いないからです。発声は、うたうとき以外の方が長く使うのです。ボイストレーニングによって得られる耳に優しく響きの良い話し声は、ときに安心を与え、ときに信頼を与え、ときに説得力をもち、発した人も受けた人も互いに満足を得られやすいということができます。妙に垢抜けた歌声が時によって人によって、羨望や嫉妬という感情の負の側面を増幅しかねないことを思えば、ボイストレーニングはむしろ、歌以外の面での効果成果をこそまず楽しめるのではないか、と。

 

日常会話における発声を鍛え磨くことの方が、ずっとずっと社会貢献になる、というのが、私二十年ボイストレイナーを生業にさせてもらって来て、強く思うことなのでした。シブイオンガクスタヂオも十五年目に入り、今後私自身はそれを具体的に進めていこうと思います。まだ準備が整っていないために良い出しませんが、おかしなことをまた言い出すことと思います。ここをご覧のみなさまがたは、どうかただただ面白がってください。

 

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(本文と写真にはあまり関連がありません。昨夜足を運んだライブ会場です。)