ドラえもん超え
今年シブイにて制作でからみました、どうぶつえかきうた。
今、えかきうた、と検索すると、かなりの上位表示されるまでになりました。
なるほどアクセスも30000を数えておるようです。
沢山の閲覧、ありがとうございました。ドラえもんえかきうたより上位って、なんだかすごい。
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変わり種のお話。
保育士系の養成学校に通う上で、音痴だから、と言ってやって来た方がある。
なるほど幼稚園とか小学校では当たり前に先生がオルガン弾いて歌っていたっけ。そういう難題を抱えるケースもあろう。
歌っていただくと、音域は確かに低めだが、音痴ではあり得ない。よくある、家族にそうずっと言われたから、というパターンだ。
いやそれどころか、童謡なのに妙に艶である。どれくらい魅力的かと言えば、もう五六年後、お子さん大きくなったら、僕といっしょにうたわないか?と誘ったほどだ。
そもそもこんな風に歌えるのに音痴だと思い込んで育ったバックグラウンドに特徴的大問題があるのだが、それがゆえにこんなところに書けないのが残念。
ただやはり、歌苦手意識生活で過ごしたせいで発声は基本がなく、不安定。
しかも、無自覚ながらこの癖は学校という世界ではユニーク過ぎて受け入れられないことは必定で、最近やはり先生に指摘されたとのこと。通例、この癖を除去さえすれば、響きも保ちも伸びも発音もよくなるのは明白。
しかし私としては、それによってこの癖を失わせるのがもったいない。
悩んだ末、模範的発声と無自覚な癖の両面を活かす方法を考えた。一般例には当てはまらないが、B型気質顕著な性格をも利用して、なんとかしようと考えている。
12月に行うライブに向かって、さあ、曲も曲順も決まった、しかしうたいづらい曲があるのでなんとかしたい。
という方がある。毎回のように、スタジオでの練習の模様をきかせてくださる。
私に課せられるのは、問題点の指摘と修復および見極め、それから短期にやっておくべきことの列挙。
すでに一年前とは格段に適正な発声が出来るようになっていて、疲れにくく、また、高めの音も使えるようになって来ている。
せっかく自作の曲で臨むのだから、きちんと成果を感じて貰いたい。
ので、問題点を列挙した。
-歌詞が出来上がっていない。
-旋律の音域を自覚的に作っていない。
-自作ゆえにか、気持ちに流される。
-曲順のせいで歌いづらい。
どれもこれも、陥りがちなことである。
発声練習では出ても、お手本のないオリジナル曲ではなおさら、不安定要素が格段に増える。
さて、列挙した対策を、彼はこなしてくれるかしら。楽しみである。たいてい、他人の評価で自信は得られる。その大きなチャンスであるから。
いい声
と、簡単にいうが、そりゃ一体どんな声かと思われるに違いない。
通常そう呼んでいて、レッスン中に見事に出してもらえた時には、鳥肌がたつ声。
澱みなく掠れなく、もちろん無理もなく、当然よく響き、長い音は余裕で伸び、邪念もない声。
おわかりだろうか。
その声で話してもらえたら、耳に心地よい声というものがあるんだったと再認識させられるような声。その声で歌って貰えたら、多少の音のずれなど歌の良し悪しには関係ないんだと気づかせてくれるような、声。
おわかりだろうか。
そういう声は、誰にでも出せる。
シブイでもたくさん聞いて来た。
皆その時は、完全笑顔だ。
私は長年こんなお仕事をして来たせいで、センサーが発達して来たのを自覚している。過剰反応ではない。
誰もが出せると言い切ってみると、それはそれこそが、その人固有の声であり、誇らしげに使って欲しいと願うもの。使う場所がないという人は、私の話を聞いてくれ。恣意的に使う必要もない。
声なんて自信はおろか、コンプレックスであった。そんなことがあるのかとお笑いの方もあろうが、大好きな野球を辞めたのは、あの、大きな声がどうしても出ず、それをなじられ、そこにいる資格がないと思わされ、集団に馴染めくなったからだ。次に好きになった歌だって、声が小さいのは身体的欠陥だと思い込んでいた。学生時代の友人は、私の声など印象にないことだろう。どうせ聞こえないだろうと思って無口に過ごしたのだから。
そんな私が雑談の折に、いい声ですねと褒められるのだ。何気ない社交辞令といえど、人は褒められたら荒んだ心も洗われるもの。
声に自信が必要か?
と言われたら、不要と答える人もあろう。ならば、とりたてて何にも自信がないという人よ、案外いることだろう。
こっそり、いらっしゃい。
かれっぱなしの彼女の続きである
近ごろご紹介が滞っていたが、日頃しゃべりすぎでだいたいいつもがらがら声の女性の話。自他ともに、そういう声の人なんだと決めつけて来たパターンである。
何週か、再びがらがらの声で現れた時には、やはりそうそう意識し続けるのは困難なことだよなあ、と思わされたが、その度本人の弁は、
いや、いつも注意するようにしています
であった。風邪であったり、または、飲んで遅くまで騒いでいたから。という。
この、メール打ってる時以外はずっと喋っている人が騒ぎ続ける事態とは、如何様なものかと想像するが、おそろしいのでやめておく。
その後、確かに喋り声は落ち着いて来た。その声大丈夫?なにかあったの?とは言わせない、まあ普通の声と言えば普通の声だ。接客業だそうで、発声する都度意識するにはもってこいである。お客様にも、がらがらの声よりは印象よかろう。
日々身体にやらせてあげること
が大切であることを、見事に体現してくれている。
なので、身の回りの人が気がついてくれたらいいなと思う。携帯電話なのにワイヤードすなわち充電しっぱなしで話し続けるという彼女の声の変化に、どうかどなたか気付いてあげていただきたい。
わざわざ通ってまでボイストレーニングをやろうという方に、確実に大きな変化をもたらすのが、ボイストレイナーのお仕事であることは、疑いのない前提である。
個人差が激しくて、実例をケースごとに記す、ということが難しい故に、どうしても一例ごとに示すしかない。
お芝居を始めた方がある。
もともとの動機は別だった。
ほら、もう分別が難しくなる。
台詞の中で男声を区別して出さねばならぬ時に、どうしてもキンキンした声になってしまう。
そう、いわゆる男性のような低音の効いた太い声音が欲しいのに。
これはいい練習になりますからねとは、言ってある。本番のための真剣な練習であり、今まで出るはずがないと思い込んで来た低めの音を出せるようにすることは、すべての基本になるからだ。
お稽古場の録音を聴かせて頂いたが、先生のお手本を真似てヒートアップするほど、地のキンキン声が出てきてしまう。
だいたいもともと落ち着いた喋り方をなさる方だ。
気持ちと体は自然に連動するのだから、仕方ない。
しかし、練習を重ねているのだろう。
慣れて来た。
慣れて来たとはどういうことかと言うと、
こういう風に出したい
と思って出そうとして成功する確率が上がったということ。
話し声と歌の大きな違いは、音の高低があからさまに厳密なのと、延ばす音があること。
それらが絡むことで、いわゆるセリフ読みにかかる、滑舌雰囲気情感といった要素から解放されることがある。
だいたい気持ちが入りすぎると力んでしまうのは、歌もセリフも同じだろう。そのあたりの加減に自分で気がついた時に、確実に大きな変化が現れる。
自発的に考えて行動する性向の方は殊に、今まで生まれてこのかた築いてきた自分の運動方式といったものにとらわれがちで、逆にコントロールが難しい。焦るほどうまくいかないのも、そういうことだろう。
ひとつの例を追究するだけでこれだけさまざまな要件が派生する。
だから、書きづらい。
声は気持ちで変わるように内的要因が大きいので、ボイストレイナーの前では、気負わず気張らずかっこつけず、素直でいてくれた方が話は早いのである。
いやあ、話逸れた逸れた。でも、実例掘り起こしは実に楽しい。また書こう。
私個人的には無縁なので分かりかねるが、気がついたら十一月である。
毎年この時期になると、
どうしても忘年会で一曲はなんとかしなければならないんです
と、困った顔で駆け込んでくる方がある。
私などは、そんなに嫌なら断固拒否すればいいだけじゃないかと思ってしまうのだが、世間一般のお付き合いとは、そんなに簡単ではないらしい。
つくづく、お付き合いは大変だと思う。そして、断れずそこにプレッシャーを感じてしまう方を、不憫に思うし、歌うのは心底いやだという人にマイクを強いる空気って、拷問に等しいわけで、そういう無神経さはどうにかならんかなと。さえ思う。
なんて言ってるとビジネスチャンスを逃すかしら。
毎年考える。
入会金不要の忘年会克服パック
考えるけどさ、無芸の人の何が悪いのさ。一生懸命おぼえて練習して臨んで、やっぱり誰もきいちゃいなくて、その人が万一徒労感おぼえたらどうしてくれるんだろ、社会ってやつは。
社会って厳しいなあ。
あめをつかう
またしても更新が滞ってしまった。
拙著の中にもあるし、たまに思い出したように今でもやるが、あめを使った練習がある。代替品は好きなように開発していただきたい。
これを近ごろ気に入って日ごろ練習してくれている方からメールをいただいた。
いいらしい。
そりゃあいい筈で、だから本にも書いたわけだが。
その方曰く、口を閉じている時は顎に力が入っているものなんだと気がついた。と。
言われてみたら至極当たり前なのに、そういう表現は全く思いつかなかった。
そうだよ。電車で寝ている人がよだれ垂らすのは、脱力して顎があいちゃってるからに違いないわけで、すなわちその逆も真なりというわけ。
実を言えば、そういった生徒さん自身の発見の積み重ねを、ずいぶん参考にさせていただいて来ている。だって、みんなそれぞれ違うし、できない人の気持はできる人にはわかりにくいものだもの。
こうなると、経験の長さがものを言う。私は講師陣には、そういった経験知は共有するように努めている。水道橋の講師たちも、さぞおかしなことをレッスンとして生徒さんに強いていることだろう。
すべて意味のあることであるから、お互い謙虚さは忘れないようにしたいものである。